野本泰司さんのゴルフストーリー

はじめに


数年前、江東区ゴルフ連盟からウェブサイトの「私の人生のゴルフストーリー」という企画で、原稿の寄稿依頼をいただきました。 その時は「私なんかがおこがましい、別の方にお願いしてください」と、一度お断りしました。 しかし、83歳を迎えた近年、「野本さんの年齢までゴルフができると分かって、目標ができた」「少しでも長くゴルフを続けたい」というお声をいただくようになりました。
いつの間にか、私は最高齢者の部類に入り、皆さんの目標になりつつあるのだと感じています。自分自身、ゴルフ人生にお別れをする日が、そう遠くない日に来るであろうことも理解しています。

今から5年前の2020年、新型コロナウイルスが流行した年に、私は心筋梗塞で倒れ、救急搬送されました。幸いにも一命を取り留めましたが、心臓の何割かは壊死し、血管にはステントが留置されています。翌日にはゴルフの予定が入っていただけに、もしも発症が1日遅れていたら、希望通りゴルフ場で逝けたのかもしれない。そう考えると、今は「おまけの人生」なのかもしれませんね(笑)。

人生は予期せぬ病気や事故で、いつ何が起こるか分かりません。そんな心境の変化もあり、皆さんの「ファーストペンギン」になるべく、筆を執った次第です。

ゴルフというスポーツを知り、実際にプレーして、老若男女問わず楽しめるこんな素晴らしいスポーツは他にありません。私の人生はゴルフによって救われました。そして、どこかでその恩返しをしたいという気持ちがふつふつと湧いてきたのです。

51年間のゴルフ人生を分かりやすく簡潔にまとめるには、詳細な資料と記憶が必要です。幸いなことに、ゴルフの記録は詳細に残っています。お読みいただく中で、つい自慢話のように聞こえてしまう部分があるかもしれませんが、ご容赦ください。また、曖昧な記憶で時代が前後することもあるかと思います。

日本でゴルフができることが、どれほど幸せなことか考えたことがありますか?世界に目を向けると、紛争が後を絶ちません。平和な日本でゴルフができることに、感謝しなければならないと強く感じます。

近年、ドライバーの飛距離は一時と比べて60ヤードも落ち、集中力の低下も否めません。スコアも77前後でラウンドしていた頃と比べ、15〜20ストローク多く叩くようになりました。「加齢のせい」の一言で片付けたくはありませんが、現実を受け入れなければ前に進めないことも理解しています。

これは、私のゴルフの絶頂期から絶不調期に至るまでの記録と記憶の物語です。この物語の先にあるもの、それは「究極のゴルフ」です。
「究極のゴルフ」は、ゴルフが上手な人も下手な人も関係なく、誰もが楽しめる共通のゴルフです。
見苦しい表現があるかもしれませんが、ご容赦ください。皆さんのゴルフ寿命が1日でも長く伸びることをお祈りいたします。


野本 泰司 プロフィール

• 生年月日:1942年(昭和17年)生まれ
• 出身地:東京都
• 学歴:1965年(昭和40年)早稲田大学卒業
• 職歴:同年コンピュータ会社に就職後、1978年(昭和53年/36歳)にデータ入力会社を設立し、代表取締役に就任。2008年(平成20年/66歳)に「ゴルフの奥義を極める」ために退職。31年間会社経営に携わる。


ゴルフの記録

• ラウンド数:約3,000ラウンド(51年間)
• ラウンドしたゴルフ場:北海道から沖縄、石垣島、ハワイ、オーストラリア、タイ
• ホールインワン:3回
 - 1989年(平成元年/47歳):レイクウッドGC 西No.7、155ヤード、5I
 - 2003年(平成15年/61歳):広陵CC 南No.6、175ヤード、5I
 - 2010年(平成22年/68歳):TJK成田ビューゴルフ No.4、167ヤード、5I
• エイジシュート:4回
 - 2017年(平成28年/75歳):TJK成田ビューゴルフ、75ストローク
 - 2019年(令和元年/77歳):若洲ゴルフリンクス、77ストローク
 - 2022年(令和4年/80歳):千葉よみうりCC、78ストローク
 - 2025年(令和7年/83歳):千葉よみうりCC、83ストローク
• 最高ハンディキャップ:3(広陵CC・クラブHD)
• ベストスコア:69ストローク(2000年/58歳、広陵CC)
• 年間最少平均スコア:79.35(2003年/61歳、88ラウンド平均)
• シニア選手権:広陵CCにて5回優勝(60歳以上有資格)
• クラブ選手権:3位入賞2回
• 東日本ミッドシニアパブリックアマチュアゴルフ選手権:15位タイ(2014年/72歳)
• 栃木県知事杯 グランドシニアの部:5位入賞(2015年/73歳)
• 愛読書:ゴルフ・ルールブック
• ゴルフとは:人生そのものである。永遠の修行、常に向上心を持つこと。
• 最期の希望:ゴルフ場のグリーン上で一生を終えたい。


1. ゴルフとの出会い


私がゴルフを始めたのは51年前、32歳になってからでした。当時は「ゴルフは年寄りのスポーツ」だと思っていましたが、今思えばそれは誤った考えで、後にゴルフが大変過酷なスポーツであることを思い知らされることになります。


最初に手ほどきを受けた上司に言われたのは「野本君、ゴルフが上手くなりたかったら、ボールはあるがままの状態で打ちなさい」という言葉でした。以来、私はボールがグリーンに乗るまでノータッチを貫いています。


また、「お得意様と銀座で飲めば2時間で5万円(当時)かかるが、ゴルフは送り迎えまで含めると12時間お得意様とご一緒できる。ゴルフのほうがはるかにコストパフォーマンスが良い」とも教えられました。


私の初ラウンドは散々なものでした。小雨が降る河川敷のゴルフ場で、ティーグラウンドの近くには順番待ちの人が大勢いました。第1打は見事に空振り、2打目はドチョロ。前半は86、次のハーフは84、そして追加のハーフは82というスコアでした。これが、私の記念すべきコースデビューの記録です。


2. 会社経営とゴルフ


ゴルフは何かとお金がかかるものです。サラリーマンが自腹でゴルフをするには限界がありました。そこで、お得意様を誘い、接待交際費でゴルフをすることが多くなりました。上司に嫌味を言われたこともありましたが、「銀座で飲むよりは…」と返しました。お得意様主催のコンペに招待されることも多かったです。
「お得意様といえども手加減をしてはならない、真剣にゴルフに取り組め」というのも、上司の助言でした。

36歳(昭和53年5月20日)、私は総勢20名規模の情報データ入力会社を銀座一丁目に立ち上げました。この日は成田空港が開港した日でもあったので、日本中が祝福してくれたと思っています。
独立に際し、上司からは「もし倒産したら、首をくくって借金を弁済しろ」と言われました。会社経営は最初からうまくいくはずがなく、1年目の決算は赤字でした。資金繰りに苦労し、自分や子供名義の定期預金を解約するなどして凌ぎました。

眠れない日々を過ごしましたが、そんな時、ゴルフに救われました。休日にゴルフをした夜は、ぐっすりと眠ることができたのです。おかげで危機を脱し、2年目の決算で黒字になり、ほっとしました。その後30年間、病気や怪我で会社を休むことなく、従業員の給料を遅配することもありませんでした。

ゴルフはミスのゲームです。ミスを少なくして少ない打数でホールアウトを競う競技。これは、コンピュータのプログラミングでバグ(不良箇所)を潰す作業に似ています。ミスが少なければ、自ずと良いスコアに直結するのです。


3. バブル期と輝かしい記録


ゴルフを始めて3年後、ようやくハーフ50を切れるようになりました。その頃、群馬県にある「藤岡ゴルフクラブ」の会員権を40万円で購入しました。当時、ゴルフブームが到来し、プレーの予約がなかなか取れず、毎週末、フリーでゴルフ場に行き、キャンセル待ちをしてプレーしていました。ジャンボ尾崎、青木功、中嶋常幸の活躍がブームに火をつけたのです。

週末ごとにさまざまなメンバーとラウンドしたおかげで、1ラウンド80台で回れるようになっていきました。そんな中、JAL123便が御巣鷹山に墜落し、520名の犠牲者が出た1985年8月12日、救急車や警察車両、消防車両がけたたましくサイレンを鳴らしてゴルフ場の脇を通過していくのを目にしました。そんな大変な時にゴルフをしている自分に、嫌悪感を覚えたことを覚えています。

1980年代後半、日本はバブル景気に沸き、ゴルフ会員権の価格は1週間で10万円ずつ上昇するなど、ものすごい勢いで値上がりしました。1989年、私は「ウィングフィールドGC」の平日会員権を1,400万円で購入。女子プロトーナメントが3年間開催され、プロアマ競技で優勝し、マウンテンバイクを景品でいただきました。

この年の11月29日、神奈川県の「レイクウッドGC」で開催されたコンペで、ホールインワンを達成しました。この時の感動は今も鮮明に覚えています。しかし、喜びもつかの間、翌日には保険会社のミスでホールインワン保険の更新がされていなかったことが判明。泣く泣く自費で8万円分のテレホンカードを購入し、参加者に配りました。


4. 広陵カントリークラブでの栄光


ウィングフィールドGCでは平日会員だったため、月例競技に出場できませんでした。そこで、1990年秋、栃木県鹿沼市にある「広陵カントリークラブ」の正会員になりました。会員権の額面は480万円でしたが、購入額はなんと3,400万円。どうしても月例競技に出場したくて、バブリーな金額でしたが購入を決意しました。

このゴルフ場は「日本一競技の多いゴルフクラブ」として知られており、毎週のように月例会や○○杯が行われています。私が広陵CCで初優勝したのは、入会から11年後の2001年。それまで月例競技やクラブ選手権など、様々な大会にエントリーしても勝てず、当時「広陵CCの7不思議」の一つと言われていました。

1990年代にはバーディを毎回のように取っており、多い時はプロ並みに4回、イーグルも時々記録しました。ベストスコアも毎年72、74、71と更新しました。そして、2000年7月20日、58歳で生涯最少ストロークとなる69を達成しました。

2002年、60歳で出場したシニア選手権では、予選を5位で通過し、決勝で前年チャンピオンと並び、プレーオフの末に優勝することができました。この年は平均スコアが79.85と70台を記録し、絶好調でした。


5. 夫婦で達成したホールインワン


2003年6月1日、月例競技で2度目のホールインワンを記録しました。この時は保険に入っていたので、記念品として時計を配りました。記念植樹には、白い花を咲かせる山茶花の木を寄贈しました。
そして翌年、2004年6月5日には、なんと妻が同じホールでホールインワンを達成。記念に赤い花を咲かせる山茶花を寄贈し、今でもティーグラウンドの横に2本の木が並んで、紅白の花を毎年咲かせています。

この2003年をピークに、私のゴルフの腕前は下降の一途をたどります。それでも、東日本ミッドシニアパブリックアマチュアゴルフ選手権で15位タイ、栃木県知事杯ではグランドシニアの部で5位入賞するなど、対外試合でも健闘しました。特に、栃木県でナンバーワンの名手と言われたN氏に勝利したことは、大きな喜びでした。


6. 究極のゴルフを求めて


2017年、75歳で江東区ゴルフ連盟に加入しました。長年通った広陵CCを退会し、地元でゴルフを楽しみたいと思ったからです。
近年は70台で回ることもありますが、かつての勢いはありません。特に81歳以降は70台のスコアが出なくなりました。かつては1ラウンドに数個あったバーディが、今はパーの数に変わりつつあります。これが現実です。

2020年には新型コロナウイルスが流行し、自宅でYouTubeのゴルフレッスンを多く見るようになりました。しかし、知識ばかり増えて体がついてこない。これがスイングを狂わせたのかもしれません。

スコアが思うように出ない、飛距離が落ちた、と道具を変えたりもがいたりしましたが、もうこれ以上は無理だと、ゴルフを辞めようと追い詰められた時、ある光景を思い出しました。

それは、私の心に「忘れえぬ人」として記憶されている、あるご老人の姿でした。宍戸国際ゴルフクラブの練習場で、年老いた奥様に手を引かれて練習場に来られ、奥様がボールをセットすると、ご老人がそのボールを打つ。ボールは20〜30ヤードほどしか飛びませんでしたが、その光景を毎回目にするたびに、私は「このご老人は、ゴルフが忘れられずに死ぬまでゴルフをしたいのだ」と感じました。

「死ぬまでゴルフ」。これこそが究極のゴルフスタイルではないか。100叩こうが120叩こうが、飛距離が100ヤードしか飛ばなくても、それは私自身であり、何も恥じることはない。過去の実績を否定するものでもない。そう思い、前に進むことを決意しました。究極のゴルフを目指して。

あなたにとって究極のゴルフとは何ですか?

私にとっての究極のゴルフは、スコアカードを持たずに無心でボールを打ち、カップインする。それを死ぬまで繰り返すことです。そこにはOBも池ポチャもなく、ただゴルフを楽しむ世界。そんなゴルフを想像しています。


番外編


エイジシュートに対する私の考え

年を取れば取るほどエイジシュートは達成しやすいと言われますが、私はそうは思いません。確かにスコア的には有利ですが、それ以上に飛距離や集中力、筋力の低下が影響します。私は、70台もしくはどちらかのハーフが30台でラウンドした時のエイジシュートにこそ価値があると考えます。


競技ゴルフを辞めてゴルフが下手になった理由

競技ゴルフは1打1打が真剣勝負で、常に緊張感があります。同伴競技者は皆、敵です。18ホールを終えると、精神的にぐったりしてしまいます。ゴルフが楽しいと思ったことは一度もなく、まさに苦行、修行でした。この精神的なプレッシャーの有無が、スコアに大きく影響しているのだと思います。


終わりに


一方で、一般的なコンペや仲間内のゴルフは、会話や和気あいあいとした雰囲気が優先されます。1打1打にこだわりはなく、チョロやダフリを笑い飛ばしながら楽しむゴルフです。 これからは、このような楽しいゴルフへとスタンスを変えていく必要があるのかもしれません。そうですね。「楽しくなければゴルフではない」このような心境です。

そして、同伴者に迷惑をかけないようプレーすることも重要です。素振りが多すぎる人、プレーが遅い人、感情をむき出しにする人は嫌われてしまいます。たとえゴルフが下手でも、一生懸命プレーしている人は好感が持てます。

ゴルフのために、朝は5時に起きてウォーキングやストレッチ、シャドウスイングを欠かさない日々を35年間続けています。

人生80余年、仕事、家庭、健康、金銭、人間関係など、様々な紆余曲折がありました。「重荷を背負いて坂道を登るがごとし」です。行き詰まり、「いつ死んでもいい、いっそ死んだ方がマシ」と口にしたことも何度かありました。そんな時、妻が私に向かって言った「勝手なこと言わないでよ、私のために生きて!」という言葉に、私は救われました。

これは、人生に悩み苦しみ、それでもゴルフ道という修行を続ける、あるゴルファーの物語です。